文鳥のさえずり 2稿

脚が不自由になった豚(文鳥付き、ほとんどハゲ)が日経に投稿したらしいので下記に貼っときます。遺稿になるかもしれんな・・・・

この男、昔はさっそうとしていたが、今や、こんな暗いテーマを考えるよーになったわ・・・天にましますわれらの神よ、どーか、このあわれな子羊、いや子豚を天国にお導き下さい・・・アーメン、ちゅんちゅん(文鳥の鳴き声)

 

 

介護保険制度と家族・コミュニティ

 

日本の高齢者比率は早晩2人以下の非高齢者が1人の高齢者を支えなければならなくなるほどだ。

私は65歳という若さで要介護1となり、高齢福祉サービスを受けている。原因不明の脚の動かしにくさは日常生活を大きく制約し、外出もままならない。一人暮らしで、唯一の収入である年金は月約12万円。電気料込み月約8万円の1LDK住まいだ。当然貯金を取り崩しながらの生活である。貯金が底をついた時の不安がよぎる日々だ。

サービス受給の自己負担は1割で済んでいるが、通院と検査のため、介護タクシーを使ったら、保険の利かない院内介助(付き添い)や一般のタクシーより割高の運賃で2か月続けて自己負担が3万円を超えてしまった。医療機関に行くこと自体を減らさざるを得ないかと考えている。

浴室用椅子も買ったが、自己負担は3千円で額面は3万円ということになるが、一般のマーケットに比べ割高だと感じた。

週2回、買物(殆ど食材)をヘルパーに頼っているが、今までは短時間なら何とか台所に立てたので、自炊をしてきたが、室内を動くことも厳しくなってきており、食事確保にも不安を感じている。

ヘルパーが建物前のゴミボックスにごみを捨ててくれるが、収集日と異なる曜日にしか来てくれないので、後ろめたさを感じながら、資源ごみの新聞や紙パック等も可燃ごみにいれ、本来の可燃ごみの収集日と違う日にゴミボックスに出してもらっている。

文鳥を飼っているが、ペットはヘルパー業務の対象外でその餌を買ってくることはできないと言われ、買いだめがなくなったらどうしようかと思案している。文鳥の世話自体(水・餌やり、ケージの掃除)も頼めないので、何とかやってきたが、非常に厳しくなってきている。ペットを飼うことを介護保険制度は許さないようだ。

親切なヘルパーもいるが、基本的に「気働き」はない。家族がいればなあと思う毎日だ。

単身や高齢夫婦のみの世帯も増えることを仕方ないと社会が諦めているのではないか。今からでも遅くはない。家族やコミュニティ(疑似家族)の復権・再構築に舵を切る時ではないか。金でサービスを買うことも必要な場合は多々あると思うが、まずは人と人の共助、世代間の助け合いで人間関係も良好なものになっていくのではないか。幼児の世話は祖父母がやればよい。

このままでは、介護事業者や介護人材が増えていく(あるいは不足する)ばかりで、日本は介護亡国になってしまわないか。多数の小規模事業所が乱立しているようにも思える。介護事業が儲かる仕事だとすればどこかおかしいと思う。

介護保険制度の見直しは、営利目的?の介護事業者のサービス提供を原点として物事を考えるのでなく、家庭の持つ介護機能にも十分目配りして、社会システムの再検討という観点で行ってほしい。

 

 

承諾殺人と死ぬ権利

 

11月4日の千葉地裁判決で執行猶予がついたが、そもそも81歳の「善良な」老人を刑務所に入れる意味などない。無罪で良い。

要介護5で自分の事は何もできなかっただろう妻は全身の痛みがあり、何の楽しみもなく毎日が地獄の中で生きていたことを我々は一体どう考えるのか。10年にわたり、妻を誠実に介護してきて、殺してくれと懇願された被告のことを我々はどう考えるのか。

健康で文化的な生活と対極にある人生の最後で、死ぬ権利はないのか。毎日つらい思いをして生かされることは拷問ではないのか。脳死の取扱がよく取りざたされるが、意識があるだけ残酷さは大きいはずだ。

生存権とともに死ぬ権利も認めるべきだ。社会は当該者の苦痛を解消するために、安楽死を許容すべきだ。もちろん、許容する際の判定は厳密に行わなければならない。

社会が人生の終末期にあたり、その苦痛を看過してきたことを皆が猛省せねばならない。被告は社会が不作為の拷問をやめないから、自ら妻の懇願に応えただけで、罪は国家・社会にある。

本件の場合は、夫婦という家族間の問題であり、家族(被告)がいたから、妻の願望はかなえられたが、単身で死ぬに死ねない人の場合はどうなのか。

本件は氷山の一角だと思う。

人間の尊厳をどう考えるのかの問題だと思う。

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